看護小説: 深夜の病棟、点滴の音


 「深夜の病棟、点滴の音」

時計は午前2時を指していた。病院の3階、内科病棟のナースステーションは、蛍光灯の薄暗い光に照らされている。点滴ポンプの「ピッ、ピッ」という単調な音と、遠くで患者の寝息が響く。夜勤の私は、カルテを整理しながら、コーヒーの苦味で眠気を追い払っていた。

新人看護師の彩花(あやか)、25歳。入職して半年、夜勤にも慣れてきたつもりだったけど、この時間帯の静けさにはまだゾクッとする。特にこの病棟、3階は古い棟で、患者や先輩から「何か出る」と噂される場所だ。ナンセンス、と思う。科学を信じる看護師が幽霊なんて。でも、深夜の廊下の暗さは、理性を少しずつ削っていく。

「彩花ちゃん、308号室の点滴、そろそろ交換ね」

先輩の美咲さんが、ナースコール対応から戻ってきて声をかけた。美咲さんはベテランで、どんな急変でも動じない人。でも、彼女の目にも、夜勤の疲れが滲んでいる。

「はい、すぐ行きます」

私は点滴バッグと交換キットを手に、308号室へ向かった。廊下は冷たく、足音がコツコツと反響する。308号室は個室で、80歳の佐藤さんという女性が入院中。肺炎で入院して1週間、最近は安定してるけど、夜は酸素マスクをつけて眠っている。

部屋のドアをそっと開けると、佐藤さんの寝息とモニターの電子音が迎えた。カーテンを少し開け、窓から漏れる月明かりで作業を始める。点滴ポンプを止めて、新しいバッグに交換。ルートを確認し、滴下速度を調整。いつも通りのルーチン。なのに、背中に冷たい視線を感じる。

振り返ると、佐藤さんがベッドで静かに眠っている。誰もいない。気のせいだ、と思い直し、作業を終えて部屋を出ようとしたその時、背後で小さな声がした。

「…ありがとう…」

凍りついた。佐藤さんの声じゃない。もっと若い、かすれた女の声。ゆっくり振り返ると、ベッドの脇に白い影が立っていた。いや、立っているというより、浮いている。長い髪、ぼんやりした輪郭。顔は見えないけど、こちらを見つめている気がした。

心臓がバクバク鳴る。叫びそうになったけど、看護師としての理性が「患者を起こすな」と抑えつける。影は動かず、ただそこにいる。私は震える手でドアノブを握り、ゆっくり後ずさりした。ドアを閉めた瞬間、廊下の冷気が肺を刺した。

ナースステーションに戻ると、美咲さんがカルテに何か書き込んでいた。私の顔色を見て、彼女は眉をひそめた。

「彩花ちゃん、どうしたの?顔真っ白よ」

「308号室…なんか、変な声と…白い影が…」

言葉が震える。美咲さんは一瞬、目を細めたけど、すぐに笑った。

「またその話? 3階の噂、気にしてるのね。新人あるあるよ。疲れてるんじゃない?」

「でも、ほんとに…」

「ねえ、彩花ちゃん。この棟、昔は結核病棟だったの。亡くなった患者も多かったから、幽霊の噂は絶えない。でもさ、私たち看護師は生きてる人を守るのが仕事。幽霊より、患者の急変の方が怖いわよ」

美咲さんの軽い口調に、ちょっと安心した。でも、心のどこかで、あの声と影が引っかかる。私はコーヒーをもう一口飲んで、次の巡回に備えた。

午前3時、ナースコールが鳴った。308号室。佐藤さんの部屋だ。美咲さんが「私が行くよ」と言ったけど、なぜか私は「一緒に行きます」と立ち上がっていた。あの影をもう一度確かめたかったのかもしれない。

部屋に入ると、佐藤さんがベッドで苦しそうに喘いでいた。モニターのアラームが鳴り、酸素飽和度が急低下している。美咲さんが冷静に指示を出す。「彩花、酸素マスクの流量上げて! ドクターに連絡!」 私は慌てて動いた。心霊現象なんて忘れ、看護師のスイッチが入る。

佐藤さんの状態は医師の処置で落ち着いた。部屋を出る時、ふとベッド脇の窓を見た。月明かりに照らされたカーテンが、微かに揺れている。誰も触っていないのに。そして、またあの声がかすかに聞こえた。

「…助けてくれて…ありがとう…」

今度ははっきり聞こえた。美咲さんは何も気づいていない様子で、カルテに記録を書き込んでいた。私は黙って彼女の後をついていった。背筋が冷たいまま。

夜勤が明けた朝、佐藤さんのカルテを整理していた時、ふと気になって病棟の古い記録を調べた。3階が結核病棟だった30年前、308号室で亡くなった若い女性患者の記録があった。名前は不明、20代、看護師に感謝の手紙を残していたと書かれていた。

私はその記録をそっと閉じた。美咲さんに話そうか迷ったけど、結局やめた。看護師として、患者の命を守るのが私の仕事。あの影が何だったのか、確かめる必要はないのかもしれない。でも、深夜の病棟で点滴の「ピッ、ピッ」という音を聞くたび、あの声が頭をよぎる。

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