短編 百合小説『あなたの声が、好きでした』


 夜勤明けのナースステーションは、乾いた静けさの中に微かに疲労が漂っていた。


「蒼さん、今日もありがと。ゆっくり休んでね」


軽やかで、少し甘さのある声。

それだけで、胸の奥がきゅっと痛くなる。


「……お疲れさまでした」


蒼はいつも通り、表情を崩さないまま会釈を返す。

本当は、もう少し話したい。もう少しだけ、あの声を聞いていたい。

でも、顔を見られるのが怖い。

気持ちがばれてしまいそうで、蒼はいつも通りの仮面をかぶったまま、ステーションをあとにした。



---


蒼は26歳。新人ではないが、まだ“ベテラン”というには程遠い看護師だ。

どちらかといえば不器用で、言いたいことをうまく口にできず、仕事のあとにはよく「どうしてあのとき、ちゃんとできなかったんだろう」と自己嫌悪に陥る。


そして——蒼には、密かに心を寄せている人がいる。

綾華。33歳の先輩看護師。仕事もできて、誰にでも公平で、何より——笑ったときのあの優しい声が、どうしようもなく好きだった。


けれど、そんな気持ちを抱えていることは、誰にも言えない。

恋愛が苦手なわけじゃない。ただ、「好きです」と伝えたあとに関係が壊れてしまうのが怖いだけだった。



---


ある日、急患対応のために夜勤が延長になった。

朝方、ナースステーションにふたりだけが残る状況になったとき、綾華が何気ない声で言った。


「蒼さんって、ほんと真面目よね。何でも自分で抱えちゃうでしょ?」


突然、核心を突かれて、蒼は言葉を失った。


「……そう、ですか?」


「うん。でも、そういう人ってね……時々、壊れちゃうのよ。だから、誰かに甘えるのも、大事だよ?」


綾華は、微笑みながら手を差し出してきた。

その仕草が、やけに大人びていて、そして優しくて——


蒼は思わず、その手を握りそうになって、慌てて自分の胸元で手を組んだ。


「……苦手なんです。甘えるの」


「ふふっ、知ってるよ。でも、蒼さんって……甘えるの、下手なのに、すごく甘えたがりだよね」


耳が、かっと熱くなる。


「そ、そんなこと、ないです……!」


「うそ。そういう顔してる」


綾華は、まるでからかうように微笑んだ。けれど、その声はどこまでも優しくて、蒼の心の奥まで届いてしまう。


「——私でよかったら、甘えていいよ?」


その言葉に、蒼は目を見開いた。

心臓の鼓動が、うるさくて、うるさくて。



---


日が変わっても、あの言葉が耳から離れなかった。

“甘えていいよ”

綾華の声で、何度もリフレインする。

仕事中も、家に帰っても、夢の中ですら、あの声が追いかけてくる。


ある夜、ついに蒼は小さな決心をした。

「話したいことがあるので、少しだけ時間をもらえませんか」

そうメッセージを送ると、綾華からはすぐに「もちろん」という返事が来た。



---


病院近くのカフェ。珍しく私服の綾華は、白いワンピースに小さなネックレスをつけていた。

その姿を見た瞬間、蒼はさらに自信を失いそうになった。

こんな素敵な人に、私なんかが……。


「今日は、どうしたの?」


綾華が席に着くと、蒼は震える声で切り出した。


「……私、ずっと……綾華さんの声が、好きでした」


「声?」


「はい……その、綾華さんの、話し方とか……笑ったときの声とか。落ち着いてて、優しくて、安心するんです」


それは、精一杯の「好き」の告白だった。

けれど言葉にした途端、顔が熱くなってうつむいてしまった。


綾華は少し黙ってから、小さく笑った。


「ふふ。変わってるね、蒼さん」


「……すみません。変ですよね。ごめんなさい」


「そうやって、すぐ謝るのも、蒼さんらしいけど……」


綾華は椅子から少し身を乗り出して、蒼の手をそっと握った。


「私、嫌じゃないよ。むしろ——すごく嬉しい」


「え……」


「蒼さんってさ、自分のこと過小評価しすぎ。もっと自信持っていいのに」


綾華の声が、いつもより少しだけ甘く聞こえた。


「……私は、蒼さんの、まっすぐで優しいところが、好きだよ」


心臓が、何度も跳ねた。

こんな言葉、夢でも聞いたことがない。

でも、今、確かにこの手は、綾華に包まれている。



---


それから、二人の距離は少しずつ縮まっていった。


最初は仕事帰りに少しお茶をするだけ。

それが、休日に映画を観に行ったり、ふたりで料理をしたりするようになっていった。


蒼はまだ、不器用で甘え下手のままだけれど、綾華の前では少しずつ、肩の力を抜けるようになっていった。


ある晩、綾華がぽつりと言った。


「甘えるの、下手だったのにね。今の蒼さん、すごく可愛い」


「……いじわるです」


「ふふ、だって本当のことだもん」


そう言って、綾華は蒼の額にキスをした。

その仕草が大人びていて、でもどこか子どもみたいで、蒼はまた——恋に落ちた。


0 件のコメント: